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親世代へ向けて!自分のことを軽んじるわけでも、重要視するわけでもなく、自分の人生に集中する!!

・親世代の日常に思いを馳せる

前回のブログで、親世代をもっと元気づけられるような内容をブログを通じて伝えられたらと書いた⬇︎が、えっさん自身に何か特別な力があるわけではなく、ごくごくありふれた日常を過ごしている毎日だ。
このブログではそんな気張らなくても、なんとかなるようにポジティブに生きてみようと悪戦苦闘する姿を通じて、何か反面教師的でもいいし、気持ちが軽くなるようなことが書けたらという思いなのだ(^ ^)

ちなみに、最近のえっさんの日常ってこんな感じだ〜。


朝は子どもが起きると同時に起きてオムツの交換をし、リビングに移動したらミルクや離乳食の準備、洗濯をして、子どもにご飯を食べさせる。
そして、歌をかけて、子どもにおもちゃを渡し、その合間に子どもの食べた洗い物を済ませる。
子どもが一人で遊んでいる時間は短く、すぐにグズグズするのでおもちゃで一緒に遊んだり、絵本を読み聞かせしたり、最近は1分たりともじっとしていない子どもの動く様子を見守る。

朝の比較的涼しい時間に暑さ対策をしながら自分も着替えて、散歩に出かける。3日に1度はスーパーで食材、ドラックストアで日用品なんか買い物をする。子どもが眠たくなってグズグズし始めたら家に戻って、仮眠をするまでの間、抱っこしながらあやす。時に外で大泣きされて、ベビーカーから降ろして抱っこしながら帰ってくる。
子どもが寝てしまったら、夕食の下ごしらえと在宅で家にいる夫と自分の2食分の昼ご飯を簡単に作り、仮眠から起き出してきた子どものオムツ交換をする。再びミルクと離乳食を作り、食べさせて洗い物を済ませる。
洗濯物が終わったら子どもの洗濯物は干す。子どもの衣類とは分けて洗濯をしている自分たちの洗濯物は乾燥機で乾かしているので畳む。

部屋の掃除をしている間、子どもも自分で掃除したがるのでローラーを渡し、コロコロしてもらう。
その後は、また一緒に遊んでグズグズしたら抱っこをしながらあやす。
お風呂に入るまでの間はまた散歩したり、幼児教室に週1日通い、終われば習ったことを参考に一緒に家の中で遊んだり、抱っこしたり、ミルクを作ったりをひたすら繰り返す。
自分の夜ご飯を子どもを抱っこしながら食べて、在宅が終わった夫のご飯の支度をする。
21時以降にようやく子どもの寝かしつけが終わったら、その後からほんの2時間くらいが自分の時間となる。
24時前には就寝し、子どもの寝相の悪さに夜中何度も起こされながら、子どもが朝起きるのと同時に7時頃起きる。
熟睡が出来ていないので、ここのところ毎日夢を見る。
「夢日記でもつけようかしら?いや、そんなことをしても凹むだけだな」なんてことを毎朝思う。


なんていう、長いようで短い1日だ。
日常とはそんなに日々、目新しいことがたくさんあるわけでも、大きな変化があるわけでもないな〜と。
子どもがおらず仕事をしているときだって、自分から何か動かなければ、同じような顔ぶれのメンバーと同じような仕事をして、家に帰ってご飯を食べて、お風呂に入って、少しゆっくりして就寝するという日常だったりする。
多くの親世代にとって日常とは、繰り返しに思える日々が多いかもしれない。

まだ20代前半の若い時だったら、こういう日常の繰り返しにもの足りなさや飽きがきてしまったかもしれない。
けれど、アラフォーの今なら変化がなさそうな日常にも自分なりに変化を見出したり、平穏を決して当たり前だとは思わずにいられたり、日々の日常の中にささやかな幸せを見出せたりするのではないだろうか

うーん、無駄に年齢を重ねていると思いたくないので、そう思いたい!!というえっさん自身の願望も含めて。笑。
ほんと日常を生きる全ての親世代にえっさんは今「お疲れさま!!」と心からのエールを贈りたい気持ちなのだ。

・自分のことを重要視しても幸せにはなれない!

しかし、こうした平凡と思える日常を受け入れられず、常に刺激や変化を求めて動いている人たちもいる。
えっさんは特にそういう人の中に「この人は、とても自分という存在を重要視していて日々疲れるだろうな〜」と思う人にたまに出会うことがある。
「周りは能力ある自分に嫉妬していて足を引っ張ろうとしてくる」
「この能力ある自分に周りが従うのは、当然のことだ」
「私に任せておけば、すべてがうまくいく」
「この仕事は自分がいなくては回らない」
「あいつや、あの会社じゃなければ、自分の能力は高く評価されていた」
「自分は成功者だ。故に、この私の言動は正しい」
など、キャリア支援の仕事をしているとこういう発言を聞くこともあるし、直接的には上記のように発言しなくても「心の中では重要視しているのだろうな〜」と思う人も少なくない。

歴史的に名前を残している人物だって例外ではなく、自分や誰かを過度に重要視してもプレッシャーになるだけで、幸せにはなれないようだ。
詳しい事例はこちらの本を参照いただればと思う⬇︎

Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための /サンマ-ク出版/ロルフ・ドベリ

もし、そういう人に出会ってもえっさんは「お疲れ様です」とは思うのだが、全力でその思考の持ち主から距離をとるようにしている。これまでの経験から、こういう人と少しでも関わるとろくな目に合わないと学んでいるからだ。
また、こういう自分を重要人物だと思うマインドの持ち主は、常に他者を意識しているので、自己肯定感が高い人とは異なり自己愛が強いので、状況次第で他者に対して傲慢になったり攻撃的になったりするので注意が必要だ。

えっさんは何か特別なことを成し遂げたり、有名になったり、社会的な成功を手に入れることが人生において重要なことだとは思わない。
では、何が重要なのか。それは、ただただ日常の繰り返しにも思える日々だとしても自分自身の人生に全集中することではないだろうかと思っているのだ。

・自分の人生に集中する!

えっさんがもし死んだと仮定しよう。そして、自分が死んだ後に誰に自分のことをたまには思い出したり、記憶に残っていて欲しいか考えてみる。
そうするとそれは、やはり家族と大切な友人・仲間に他ならない。
そして、その家族や友人が月日が流れいつか全員が亡くなったとしたら、きれいさっぱり自分が生きた形跡がこの世界からなくなることに対して何ら寂しいとも、残念とも思わない。むしろそれが例えば5年くらいの間だったとしても、少しでも覚えていてくれた人がいた人生を幸せに思うのではないだろうか。

自分の命があとどのくらいなのかは分からないけれど、寿命が尽きるまで自分の人生に集中できたら素敵だな〜と思う。自分がどんな価値観を大事にして、どんな風に人と関係を築き、どんな風に歩んでいきたいのか。
自分にはどんな能力があると客観的に認識し、それを限りある人生の中でどう生かし役立てていくのか。
それを考える上で、他者の視点を意識したり、変に影響を受けたり、ましてや後世に名を残すなんて発想がない方が随分と呼吸がしやすい人生のように感じる。

えっさんにとって「普通」の定義は難しいところなのだが⬇︎、不特定多数の人の記憶に残ることを目指すのではなく、自分の身近な人たちの記憶に少しでも残る「ふつう」のありふれた自分の人生を精一杯生き抜くことにエネルギーを費やしていくことが自分にとっては幸せなのではないかと子どもが生まれてからより一層、思うようになった。

自分のことを卑下するわけでも、重要視するわけでもなく、自分が大切な人やことを見失わずに自分自身の人生を不器用でも誠実に集中して歩んでいくことで、日々の日常を愛おしく思えるような毎日がおくれたらいいな〜(*^^*)

今日の子どもが豊かに生きるヒント!

親世代にとってありふれた日常は時に退屈に思えてしまうこともあるかもしれない。けれど、自分にとって大切な人やことを想いながら、たまには自分の人生で残したいことは何なのだろうとじっくりと自分の心に向き合ってみてもいいかもしれない。実は、こうしたありふれた自分の人生に集中することが自分にとって幸せなことだ気づいたりする。子どもには不特定多数から支持される人より、子どもにとって本当に大切な人たちと幸せな関係を築いていける人になってもらいたいものだな〜。

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