・「幸福度ランキング」は何のためにあるのか?
えっさんは、「幸福度ランキング」なるものがどういう目的で存在するのかがよく分からない。
例えば、独身の人と、子どもがいない既婚者と、子どもの人数別での既婚者で誰が一番幸せなのかをランキングしたりすることにどんな意味があるというのだろう。
幸福度を属性によって区分して、統計的な数値を出したところで建設的にものごとが進むとは思えない。
各人でさまざまな事情があり、「自らが選んだし希望がある場合」と、「選んでいないし特に希望もしていない場合」とある。それに年齢やライフステージによっても全然異なるわけだし、幸福の尺度も人それぞれ異なる。
例をあげればキリがないわけだが、ほんの一部を書き出してみるとこんな感じだ。
▶︎「月10万円で豊かに暮らせるわ〜」と思う人もいれば、「月100万あっても足りないわ〜」と思う人もいる。
▶︎「結婚を今すぐしたい」と思っている人もいれば、「独身最高!!」と思っている人もいる。
▶︎「結婚に精神的な安定を求めていたので、安心できる人と結婚して幸せ」という人もいれば、「経済的な安定を求めていたのに、聞いていた年収より低い人と結婚してしまい後悔している」という人もいる。
▶︎「はじめから子どもはいらない」と思っている人もいれば、「いたらいただし いなければいないだし」と思っている人もいるし、「苦労して不妊治療をしても授かることが難しい」人もいる。
▶︎「子どもが2人以上いた方が子どもにとって良い」と思う人もいれば、「1人のほうが子どもにとって良い」と思う人もいるし、「1人で体力的に限界」と思っている人もいれば、「本当は2人ほしいけど経済的に厳しい」と思っている人もいる。
そして、そんな自分の状況に対して、「希望が叶わなくとも前向きに捉えている人」もいれば、「その状況を受け止めて現実と折り合いをつけながら歩もうとする人」もいるし、「希望が叶わずに今まさに苦しんでいる人」もいる。
えっさん自身も子どもがいないとき「子どもはいつなの?」と聞かれるとあんまり良い気持ちはしなかったし、子どもが生まれたら生まれたで「2人目を考えていないわけじゃないんでしょ?(話の前後の流れから1人だと可愛そうというニュアンス)」と聞かれると、家族のあり方を質問者にとっての家族観を前提として問いかけられている印象を受けてしまう。
それはえっさんの中の家族観とは異なるな〜と思うわけだが、反論するのもな〜と曖昧な回答になってしまう。
きっとこうした質問をする人も多くのケースでは他意があるわけではないし、えっさん自身も今でこそ注意しているものの、刷り込まれている家族観や自分の中の家族観と照らした不用意な質問をして、相手に不快な思いをさせてしまったり、時には傷つけてしまったことだってあると思うのだ。
それはえっさん自身が、大いに反省すべきことだし、相手への配慮と思いやりを常に忘れてはいけないと思っている。
また、こうも思う。
他者に対しては、相手の状況を想像したり、配慮をすることはとても大切なことだが、自分自身のライフスタイルに対して大事にしたい価値観が自分の中にあるのは大いに結構なことだと思っている。
それが知らず知らずに刷り込まれた昔ながらのマジョリティの価値観や国としての政策的な思惑がある価値基準の影響を受けていないかは注意深く振り返る必要はあるが。
その価値観を他者にも無理やり当てはめようとするから、齟齬が発生してしまうというわけだ。
・そもそも「幸福」を定義することは難しい
そもそも「幸福」の定義もダイバーシティの観点から言えば、さらに複雑になってきているのではないだろうか。
「どうしたら幸せになれますか?」と聞いて、一言で結論づけられる答えなんてないのではないだろうか。
あるとしたら、「私(もしくは教典)を信じなさい。そしたら、あなたは幸せになれます」という信仰的な要素があるかもしれない。
考え方としては、どうしたら幸せになれるのかは言いにくいが、どうしたら不幸せを避けることができるのかということは言えると思うのだ。
例えば、恒常的に暴力や暴言を浴びせる人物が身近にいたり、薬やお酒など何らかの依存症になってしまったり、密室に監禁されてしまったり、多額の借金を背負うことになったり、何時間も満員電車に乗ることが日常的であったり、そういうことは誰にとっても幸せな状況とは言いにくい。
そして、こういう状況に自分の身を置かずに済むように回避するための知恵ならある。
「今、あなたは✖️✖️といった幸せとは言いにくい状況にさらされているか否か」という質問を国別項目別に聞いてみて、仮に世界的に見ても日本の「1時間半以上満員電車に乗る」の割合が高かったら、それは建設的に国として解決すべき課題となるということは理解できる。
しかし、人によって尺度がますます異なっていくだろう「幸福」についてはどうだろう。
ランキングをして、どこの国が幸福度ランキング上位で下位かというのはあまりにも時代錯誤ではないだろうか。
・「幸せの国」ブータンの幸福度が下がった要因
テレビなんかで一度は、「幸せの国」と言えば、ブータン!なんて特集を見たことがある人も少なくないのではないだろうか。
しかし、1999年にブータンでは、テレビとインターネットが解禁され(それまでは国として禁止していたわけだが)、国民が情報にアクセスできるようになると、国民の幸福度が下がったと言われている。
情報をシャットダウンされている中では気づきにくかった、「自分にとっての幸せとは何か」ということを考えるきっかけが出来たことは、幸福に対しての画一的ではない考え方を一人一人ができるようになったとも言える。
私たちは他者や自分の過去との比較の中で、今の自分は幸せなのかそうではないのかと考える傾向にある。
すると当然、周りの人たちが全員自分と「幸福」の定義は同じで、さらに同じ生活水準かつ環境で、将来もそうだと信じることができたら幸福度は総じて高くなる、というか低くはなり得ないのではないだろうか。
それは、多くの人が自分とは全く異なる世界にいる人よりは、身近だったり同じような環境にいる人との間で自分と他者とを比較しやすいことも影響している。
例えばこんな感じだ。
ずっと長年の夢だったマイホームを購入した。それまでに一生懸命に貯めたお金で、自分の理想とする家を35年の住宅ローンで建てたのだ。はじめはとても嬉しくて、多くの友人を招いてみんなそれぞれに賛辞を伝えてくれた。
その中の一人で、同じ会社の同僚が「この場所、素敵だね。すごく気に入った」と言って、自分の隣りの土地にマイホームを建てた。しかし、その家は、自分たちの家よりも2倍以上広く設備もデザインも高価そうなものだった。庭もとても広く、そこでは自分と同じように友人たちを招いてホームパーティをしていて、楽しそうな笑い声が週末になると聞こえてくる。
そうすると、どうだろう。それまで自分の夢が叶って、充実した日々を過ごしていたのに、隣りの家が気になり引越しをしたいとまで思ってしまう人もいるだろう。
他者や自分の過去と比較せずにいられることが自分にとって精神的にも良いだろうが、何よりも自分の中で大事にしたい価値基準をしっかりともっていると他者との比較が気になる時も、自分の支えになってくれるのではないだろうか。今もこれからも自分も子どもたちにも「幸福度ランキング」なんてものに惑われずに、自分の内側にある価値観を尊重し合える世の中で、楽しい毎日を送りたいものだ。
「幸福度ランキング」なんてものは、自分の幸福にとって何ら関係もなければ、意味がないものだ。自分なりの大事にしたい価値基準をもち、そしてそれを自分の中で育んでいこう!
ただし、その価値基準を他者にも同じように当てはめたり、期待するのはやめておこう。それが相手を傷つけたり、嫌な気持ちにさせてしまうこともあるのだから。