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子どもの選択肢は多ければ多いだけ良いのか!?選べることは幸せなことだが、多すぎても大変!?

・選択肢が多いことは良いことなのか!?

最近、地方都市に住む親友と電話で話をしていて「都内は子どもの選択肢がいっぱいあっていいな〜」と言われた。

その言葉を聞いたとき、ふと3年前くらいの神田駅近くに住むお酒好きの同僚とのやりとりを思い出した。
同僚にえっさんが、「神田は飲み屋がいっぱいあって、選り取り見取りでお酒好きにはたまらないんじゃないですか?」と言ったら、同僚から「いや〜選択肢があり過ぎて逆に困ってる。毎回選ぶことが面倒臭いからいつも迷ったあげくに、同じ選択をしてしまってこれでいいのかと性懲りも無く悩む」と言われたのだ。
更に同僚はこうも続けた。「むしろえっさんの家の周辺みたいに程よく選択肢がある方が良いと思うけど。例えばワイン飲むならこの2店舗のどっちかみたいな感じだと選びやすいじゃん」って言われて「妙に説得力があるな〜」と思ったのだった。

冒頭の話に戻ると親友が住んでいるエリアは、ほぼ全員が公立の小学校に入学し、そのまま公立の中学に進学する子どもがほとんどなのだそうだ。親友は正社員のプログラマーとして4人の子どもを育てながら週5日時短で在宅ワークをしているが、他にそういうリモートの仕事を地元で探そうと思っても求人は少ないかもしれない。
けれど、他に選択肢がないかというとオンラインや私立の学校もあるし、求人だって地元には少ないけどオンラインであればあるだろう!つまり、選べる選択肢は他にもあるが、多過ぎるということはないかもしれない。

親友が住んでいるエリアと比較するとえっさんが住んでいるエリアは公立の小学校からそのまま中学校に進学する子どもの割合は低い。小学校から受験する人もいるし、インターナショナルを選ぶ人もいるし、中学受験対応の塾に至っては自宅から半径1キロ圏内に目につくだけでも15箇所くらいはある、中には中学から海外留学する人もいる。
仕事についても地元から近い場所に多くの企業があって、フルリモートワーク可能な求人だって少なくない。つまり、住んでいる環境を考えると子どもの進路も自分のキャリアも選択肢が多いことになる。けれど、選択肢が多すぎるって本当に良いことなのだろうか!?とふと疑問に思った。

もし自分の住まいが固定されていて、子どもの進路も中学まで概ね全員同じで仕事も変えない可能性が高いとしたら、その選択肢の中で最善を尽くす覚悟が早々に決まるんではないかと思ったのだ!!

・情報量が少ない方が判断力は高まる!

例えとして、新しい子ども園が近所に新設されたので、その園の見学をしたときの話をしよう。
その子ども園の設立経緯や教育方針、運営データを園長先生から詳細に聞いて、直感的に「とてもいいな〜」と思ったし教育方針に共感したのだ。
しかし、その説明を聞いた後に追加でネットから情報収集をしたところ、口コミや評判なんかを読んでいてネガティブなコメントや批判的なコメントを目にした。それが客観的な事実ではなく、主観的な口コミだとしても「自分がいいな〜」と思った当初の判断に迷いが生じたり、不安になったりしたのだ。
けれど、また別の角度から情報を収集してみると「やっぱりいいな〜」と思い直すような情報があった。
思い直すくらいであれば、はじめに園長先生から話を聞いて、実際に自分の目で様子をみたときの「自分の判断のままで良かったのに!」「追加で情報収集した時間って何だったんだろう!?」と思ったのだ。

また、自分がとても疲れている日に何気なくスマホからネットニュースを流し見していたときのこと。
自分にとってそのニュースが必要な情報ではないにもかかわらず、記事を開いてしまい、また記事に対するコメントをあろうことか一通り読んでしまったのだ。
そして、そのコメントの中で自分が大事にしている価値観とは異なる価値観に触れることになって不安な気持ちになり、大事にしている価値観について再考してみることになったのだ。
そして、色々と追加で情報を検索をしてみて「やっぱり自分の価値観を貫こう!」という結論になった。
そんな一連の情報収集作業と思考を繰り返してみて、えっさんは余計に疲労感が増してしまった。「そもそも自分にとって必要でも、関係もないニュースなんて見なければいいのに〜」と後悔することになるのだ。

こうした行為についてスイスの知の巨人 ロルフ・ドベリ氏は著書の中で自分の判断の質を高めるには、最低限の情報で生活することが大事だと明確に伝えている。
選択肢が多いと、その選択肢1つ1つについて情報を集め過ぎたりする傾向が人にはある。情報を集めた結果、また考えていなかった新たな選択肢も増えたりする。そんな風に雪だるま式に情報を増やしたところで、判断の質が低下するだけだという事実を頭では理解していても実際に行動できておらず、えっさんは反省をしたのだった。

・選択肢を持つことは無償ではない!

また、ロルフ・ドベリ氏によると選択肢を持つことにもコストがかかっているという話をしている。
先のえっさんの事例のように、選択肢をそれぞれ検討することには精神的なエネルギーが必要で(時に自分の選択肢が正しいと思いたいがための情報収集を繰り返すことになる)、選択肢を再考するなど思考をしたり、またこの選択肢はどうだろう?と試してみたり(体験入学や見学のようなものをたくさんするなど)することで、時間を浪費することにつながったりする。

どの選択肢も持っておきたい、失いたくないというのは人の心理ではあるのだが、その選択肢を維持するための目に見えないコストもかかっていることを日頃から忘れてはいけないな〜と思うのだ。
時に退路を断つことで、自分が選んだ選択肢に集中することができ、その結果、道が拓けるということは言えるかもしれない。
多過ぎる選択肢をそれぞれ吟味しようと思えばそれだけ多くの労力がかかるし、特に子どもの選択肢となれば親だけではなく子どもにも負担をかけることになる。

結論、選択肢があることは悪いことではないし、ある種幸せな境遇にあるとも言える。けれど、多過ぎる選択肢は判断の質を低下させ、場合によっては多大な目に見えないコストを支払うことにもなりかねない。
最低限の必要な情報とともに生活をし、一度選択をしたならその選択に集中することが結果として子どもの生活の質を高めることにもつながることを忘れずにいよう!

今日の子どもが豊かに生きるヒント!

自分のことを振り返っても選択肢を吟味し過ぎて、その選択肢の余計な情報に振り回されていることがあるな〜と反省することがある。必要な情報を最低限もち、その情報の中で自分の頭で考え、そして一度選択をしたなら、その道に集中できるようになることで生活の質が高まるかもしれない。それは親だけではなく、子どもにも影響があることを決して忘れずに過ごしていこう。

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