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子育てにおける自分自身の「執着」について明らかにすることのすゝめ!

・過去の強いインパクトが子育てに及ぼす影響!

最近、子育てに関する親の経験談を読んでいると「過去の自分の経験が、子育てに大きな影響力をもっているんだな〜」と一見当たり前と思える事実をまじまじと感じることが多くなった。と同時に、その経験談を通じて自分自身が、これまでのどんな過去に影響を受けて子育てをしているのかということを、じっくりと振り返ることも多くなった。例えば読んでいた経験談の一例としては、こんな感じ⬇︎

▶︎学校から帰ってくると家で一人のことが多くあたたかい夕食を食べた記憶があまりないという人が親になったときには、家族みんなであたたかいご飯を子どもに食べてもらうことに注力する。

▶︎親から「こうしなさい」という押し付けや管理が非常に厳しかった人は、子どもの「こうしたい」に自ら口を出さずに、見守りつつも子どもが自分が思うように自由に過ごすことを大事にする。

▶︎経済的に苦労をして貧しさが要因でいじめを受けた経験がある人は、とにかくお金の面で子どもに苦労をさせないように、子どもに経済的な豊かさを重視した環境を与えようとする。

上記とは逆の一例としては、こんな感じ⬇︎

▶︎自分の歩んできた学歴(中学受験の有無、女子校/男子校が楽しかった、留学経験等含む)にプラスの記憶があるので、子どもにも自分と同じ道を歩んでもらえるように奮闘。

▶︎自分が親から何も言われず基本的には放任で過ごしてきたことで自分の得意や仕事を見つけたと思っている人は、自分の子どもにも同じように干渉をせずに放任で育てようとする。

▶︎経済的に恵まれてきたことで自分がやりたいことをやれた経験がある人は、子どもの教育には糸目を付けないで子どもの教育費にお金をかける。あるいは、経済的に恵まれていても子どもの教育にはお金を出してもらえず自分がアルバイトをしたお金と奨学金で大学を出たことで成功したと思っている人は、子どもにも同じように自分で教育費を工面したり奨学金を借りて自分の進路を切り拓いてもらおうとする。

などなど。
大きく選択肢としては2つあって、まずは「自分が子どものときこれが嫌だったので、自分は子どもにはしない。あるいは、自分がされたこととは真逆のことをする。」という選択をするのか。
はたまた、「自分がこういう環境や親からの言動で育ったのが自分の人生にプラスの影響を受けたので、子どもにも同じような環境を用意したり、親と同じ姿勢で子育てをしたりする」選択をするのか。
あなたは、今これまでの人生を振り返ってみてあなた自身の子どもの子育てに、過去のどんな影響を受けていると感じるだろうか!?

・その過去の影響が度を過ぎて「執着」になっていないか?

えっさん自身のことを打ち明けるのであれば、自分の過去を振り返って今、子育てにおける過去の影響としては自分が嫌だったので、子どもにはしないという選択をしていることも正直なところあると思っている。
けれど同時に、自分がこういう環境がよかったので、子どもには同じような環境や機会を与えたいという選択もしている。えっさんと同じように、子ども頃に自分がされて嫌だったからしない。けれどこういう環境は、今の自分にとってもプラスだから同じようにしたい。その両面の過去を子育てにおいて、意識的にしろ無意識にしろ自分の子どもに踏襲している子育て世代の人は多いのではないだろうか!?

また、もっと言ってしまうと自分が子どもの頃にされてとても嫌だったことであっても、それによって今の自分があるという過去の出来事の意味づけの変換によって、子どもにも同じように自分がされて嫌だったことをしてしまっている自分に気づいて自己嫌悪になることだって、誰にでも起こり得ることなのではないだろうか。
児童虐待の悲しい連鎖が一定割合で起きてしまうことにも、子どもの頃の強いインパクトが自分の行動や思考パターンを支配してしまっていることも要因としてある。

過去の自分の体験が、今の子育てのあり方に影響を受けること自体はごく当たり前のことだと思うのだが、それらの自分への影響が大きかった過去にあなた自身が「執着(ある物・事に強くひかれ、深く思い込んでどうしても忘れ切れないこと)」をしていないのか否かということは、自分の子育てをいま一度冷静に振り返っておいたほうがいいのではないかと感じている。
なぜならば、それらの過去に「執着」をしていると今、時代も違う。世界の変化も速い。自分たちが生きてきた世界とは異なる世界の中で生きている目の前の子どもにとっての大切な価値に気づくことが出来ない、見逃してしまう可能性があるのではないだろうか!?ということを最近はよく自分事として思うのだ。

えっさんが「執着」していることの実例を出すと、子どもの気持ちに共感を示したり、受け止めたりすることに「執着」しているな〜と感じることがある。えっさん自身が反抗期のときに父親が海外出張や転勤等で一定期間、家にいないことがあった。
そのため、ワンオペで母親が弟とえっさんの子育てをしてくれていた期間もあったのだが、そのときが今振り返ると母親の更年期と重なっていたこともあって、自分が学校で悩んだり、逆に嬉しいことがあったりしたときに母親に自分の正直な気持ちを言えず、家に帰ると母親の日々の愚痴や叱責を聞かされる毎日が続いていた。
そのため、家に帰ることが毎日とてもしんどくて、特に何もすることもなくとも外で無駄に時間を潰して家に帰ることもあった。当時あまりに辛すぎて、泣きながら母親のお母さん、つまり祖母に電話で「今、こういう状況でとても辛い。おばあちゃんから何とか母親に話をしていただけないか」ということを切々と訴えた過去が自分の子育てにも強い影響を与えているな〜と感じる。
そんなわけで、自分がどんなときでも子どもの気持ちに寄り添いたいという想いが人一倍強いのだろうなと自分の子どもへの接し方を振り返ると感じる。これはやっかいなことに自分以外の他者、特に夫に対しても同じ期待をかけてしまうので、夫が子どもの意思とは関係なく強引に他のことに誘導しようとする言動があるとつい物申したくなってしまうのだ。
また、自分が子どもが嫌がっているのに例えば朝急いでいて、強引に服を着替えさせようとしまったりするとそんな自分に必要以上に落ち込んでしまったりという影響があることに気づく。

・「執着」を明らかにし、時に「諦め」、程よいバランスを保つ!

何事も基本的にはその「程度」について意識することが大切だと思うのだ。
例えば先の話のように子どもの気持ちや感情を尊重することを1つとっても、それ自体は手放しで良いことのように感じても、尊重することに執着するあまり相手や自分の言動を縛ってしまうことにつながっているのであれば、それは程度としては行き過ぎということになるのではないだろうか。

では、どうしたらそうした過去のインパクトに起因する「執着」をうまい具合に手放すことができるのだろうか!?
それにはまずあなたが何に対して客観的に行き過ぎた「執着」を抱えてしまっているのかを、言語化するなど明らかにすることからからはじめてみることが良いかもしれない。
自分ではなかなかその「執着」が「程度」を超えていることに気づかないこともあるので、家族や子ども本人、第三者に「自分の子育てのどんなところに強い思い入れを感じるているか」を聞いてみてみてもOKだろう。
そうして振り返ってみて明らかになった「執着」に対して、次にすることはその自分の「執着」に程よいバランスをとってあげることなのかな〜と今、えっさんは考えている。

先のえっさんの実例に戻ると、まずは自分が意識的に子どもの気持ちに寄り添うように接すること自体は問題がないものとして素直に肯定をしてみる。
けれど、子どものご機嫌が悪かったり、すでにそのことで他者に迷惑をかけていたり、大人都合ではあるものの時間がなくて急いでいるときや自分の体調が悪いときなど、いくら子どもへの言動を工夫したとしても、なかなか気持ちに寄り添えないし、当然こちらの思う通りに子どもが動いてくれない状況のときは往々にしてある。
そうしたシチュエーションは自分の責任ではなく、誰にでも起こり得ると潔く認めてしまうことも大事なのではないだろうか。
そして、そういうときはいっそのこと子どもの気持ちに寄り添うことよりも、そのことで自分がストレスを溜めない対応。例えば、子どもを抱き抱えて、その場から移動するといった子どもの心を傷つけずにその場に対処する方法を優先してもいいのではないだろうか。
こうしたある種の「執着」に対する「諦め」を自分自身が許容するという選択肢を持つなどして、うまく「執着」していることと自分自身の心身のバランスを保ってあげることって、親だけではなく子どもの精神衛生上にも良いのではないかと考えるにようになってきた。

以前ブログでは家計管理のコツとして、自分のこだわりを棚卸ししようといったことを書いたことがあった⬇︎

このときと同じように、自分の「執着」を棚卸しして、時には潔く「諦める」といった具合に他の選択肢ももてるようになることで気持ちの面で子育てがとても楽になるのではないだろうか?とえっさんは思うのだが、あなたは自分の子育てにおける「執着」とどう向き合っていくのがいいと考えるだろうか!?

今日の子どもが豊かに生きるヒント!

私たちは意識的にしろ無意識的にしろ、子どもを育ている中で自分が育つ中で過去に大きな影響を受けたことをベースにして子育ての方針を決めていたり、「執着」をしていたりすることが往々にしてあるのではないだろうか。もちろんそれ自体が悪いわけではないのだが、その「執着」が度を超えている場合は子どものためにも自分のためにも、その「執着」との程よいバランスをみつけてあげようと意識をし、実際に別の選択肢をもつなど行動をしてみること。そうした日々の心がけが心豊かに生きるという観点からも必要な努力であると感じるのだが、あなたならどう考えるだろうか。

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