記事内にPRを含みます。

体力・活力も大事な能力だが、なくてもマイペースで歩もう!

・能力が備わっていないことは仕方ない

今日はとある素敵な新婚さん夫婦との会話をきっかけにこのブログのテーマで書こうと思った!この場をかりて、幸せな時間を感謝したい。ありがとう!!!

さて、えっさん自身は、能力として「平均より体力が備わっていない」と自分で認識している。
そもそも筋肉量がハードな部活動をしている時から異様に低いのだ。
小さい頃は、人よりも疲れやすく、部活で基礎トレーニングをしていても、腹筋だの腕立て伏せだの全然できなかった。それが、自分の努力や練習不足なのではないかと頑張った時期もあったが、同年齢の平均以上にできるようになることはなかった。今後もそれはないかもと思っている反面、もしかすると90歳くらいまで生きていて、健康体だったら平均以上になるかもしれないと少しの希望はもっている。

小学校の時に課外のクラブ活動でバレーボールをやっていたが、いま思うと「ハラスメントか?」と思うことを平気でやるような厳しいクラブだった。
・合宿中にサーブが100本連続で入らなかったら昼食抜き
・監督の話の途中に他のチームの練習をちらっと見たら、顔面にボールを何度も何度もぶつけられる
・胃液を吐くほど身体が悲鳴を上げていても、かかとを上げ、膝を曲げ、レシーブの姿勢のまま動くことを許さない
などなど
今はこういう指導は周囲からも抑止力が働くだろうが、当時(30年くらい前)はそういう根性論を好む指導が問題視されていなかったような気がする。
そんな厳しい練習が求められるクラブ活動を家の引越しで転校するまで2年半ほど続けたが、えっさんの体力が人並みに向上することはなかった
一方、技術的なことは量というよりは質的な努力で平均並みに身につくので、努力次第で試合に出させてもらえていたし、中学でバレーボール部に入部したときは、1年生からレギュラーにもなった。しかし、終盤になる体力がもたずにミスが多くなった。

「あ〜体力と活力さえあればな〜、もっと色々と出来るのに。悔しいな〜」と今も子育てでも仕事でも勉強でも趣味でも思うようなシーンはたくさんある。
しかし、えっさんは体力は能力の1つなので、それが人並みに自分に備わっていないことは仕方ないと思うようにしている。

ある著名な経営者がメディアからのインタビューで、「24時間仕事をすることが苦ではなく、むしろ楽しいので寝ることすらもったいないと思っていた。しかし、あるとき海外の取引も相まって本当に24時間神経と集中力を使い続けるような仕事を続けて、予期せず身体を壊した。医者からは絶対安静を余儀なくされて、仕事をしたくても出来ない期間を過ごした。あの経験がなかったら、今も仕事が出来ない人を努力不足だと考え、その気持ちが分からなかったかもしれない。そして、会社も労働時間のメリハリと、休暇を大事にする風土にはならなかっただろう」と言った趣旨の話をしていた。

そうなのだ、世の中には圧倒的な体力と活力で、世界を切り開いていける人がたくさんいる。
経営者や実業家の多くは、ロードバイク、ランニングにジム、筋トレ、ヨガなど何かしらのワークアウトを日常に取り入れ、平均よりも体力・活力ともにみなぎっていたりする。
自分が人並み以上にアグレッシブなことが普通なので、その体力・活力がない人を物足りないと感じてしまう。

しかし、人は自分にはもともと備わっていた能力を発揮できなくなってみて、それが自分に与えられていた能力の1つだと気づくことが多いのではないだろうか。

・自分の能力の内側に集中する

体力や活力というよりも、そもそも持病や障がいがあることで身体を酷使できないということもあるだろう。
能力をもっているのに、活用できない時期や状態というのもある。
何れにしてもどんな人にも程度の差はあれその人、その人一人一人がその時、その時で抱えている制限なり、限界はあるのはどうしようもないことだ。
周りにはあるのに自分にはないものに目を向けても、努力だけではどうしようも出来ないこともあるのは普通のことなので、そんなことに憤りや無力感を感じても意味がないどころか、自分にとってマイナスでしかない。

そうなのであればそうした限界ないし、制限があることに目を向けるよりは、自分に備わっている能力に目を向けるほうがよっぽど心身ともに健康でいられるのではないだろうかと思うが、いかがだろうか。

自身のことを振り返ると、平均より「ない」体力・活力の能力に関して言えば、実生活はもちろん、娯楽や旅行などの楽しむための時間も「綺麗な海を泳いだのに、疲れて途中で気持ち悪くなる」や、「綺麗な星空を眺めているのに、酸欠になり夜空を見上げるどろこではなくなる」など様々なシーンで影響が出てきてしまうこともある。
それはそれで、えっさんとしても「もったいな〜」と思うのだが、今は自分が無理しない程度に自分が持っている能力の範囲で工夫することに目を向けたらいいのだとマイペースに考えるようにしている。
綺麗な海は眺めるまたは、体力に余裕がある短時間だけ泳ぐを繰り返す、酸欠になるなら酸欠スプレーを使えばいいし、そもそも酸欠になりそうな場所で星空を観なければいいわけだ。笑。

そして、人よりも特性として備わっている能力について経験から棚卸しをし、高めることに多くの時間とエネルギーを費やせるように意識するようにしている。

・もし子どもに人並みの体力がなかったら

小さい頃から病気になりやすい、体調を崩しやすい、アレルギーがひどく運動に制限がある・・・
もちろん生まれた時から、病気や障がいを抱えていることもあるだろうし、色々な制限・限界が想定される。
親としてはひどく心配・不安になることもあるだろうし、責任を強く感じることもあるかもしれない。

けれど、親とて子どもにしてあげられることには制限なり限界があるのだ。
それは、医療上の問題かもしれないし、はたまた金銭的な問題かもしれないし、時間の問題かもしれない。
何ら親の努力では解決できないことも残念ながらたくさんあるのだ。
自分たちができることを家族で話し合い、または自分の中で整理し、その時その時の制限・限界の境界は自分で見えるようにしておくのも1つの案としてはある。

何が不安なのか心配なのか、自責感なのかを分かっていない状態で子どもに接しても、子どもはそんな親の様子を敏感に察知してしまうのではないだろうか。
それに、親の過度の心配・責任感を子どもに伝えること自体は、子どもにとっても心理的に負担になることがあるな〜とえっさん自身の経験から思うことがある。
親自身も「制限・限界がこんな風にある中で、自分のできることは対応している!」という実感をもてることは、自分自身の精神状態を正常に保つことに役立つはずだ。

そして、子どもが人並みの体力がなく、それによって自己肯定感を下げているようであれば、ないものではなく自分のもっているあるものに目を向け、そこに集中できるようにサポートしてはどうだろうか。

今日の子どもが豊かに生きるヒント!

能力がないことに目を向けるより、あることに目を向けよう。そして、ないことについては自己肯定感を下げない程度に自分の中で無理のない範囲の努力と、工夫、そして時には諦める(自分の中で捨てる)をしたらいいと割り切ってみよう!
それは子どもに対しても、そして親自身にとっても豊かに生きるという観点で役に立つのではないだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA